心の備えを持つことの重要性とインフォームド・コンセント


  あなたが今、の告知を受けたと仮定して、医療者に一番望むことは何だろうか?

   もちろん微妙な個人差はあるだろうが、この問いに対して、「十分な説明を受けて、今でき得る限り自分に合った最善の治療を受けたい。」と考えない人はないのではなかろうか。従って、「心の医療」を、「精神科の医療」でなく「患者の心を大切にする医療」と広義に捉らえた場合、量・質共に十分なインフォームド・コンセントは、原点であり、かつ大前提となる。どんなに精神・心理療法を駆使しても、これを踏まえていない「心の医療」は欺瞞にすぎない。

   「十分な説明を受けていない。」「本当にこの治療法が一番良いのだろうか。他にもっといい治療法があるのではないか。」という疑念を抱き続けることは、患者と家族の心に大きな苦しみや後悔をもたらすからである。インフォームド・コンセントは、契約や説得であってはならないことはもちろん、「決定」や「結果」である以上に「対話」という「過程」なのだと気づかされる。現実には、治療効果クオリティー・オブ・ライフは反比例することも多く、二者択一を迫られる時もあるだろう。しかし両者の連続性を通過し、徹底的に理解し納得した上での決断は、これを欠いた決断とは全く異なるはずである。その違いは時に、処置の効果や痛みにさえ違いをもらたすと聞いている。

   また、たとえ根治に至らなくとも、患者が「歩むべき所を歩んできている」という確信を持ち続けられたなら、その闘病は成功だったと言えるのではなかろうか。闘病記に見られる不満の多くが「なぜあの時、もっと説明してくれなかったのか。」というものであることも、インフォームド・コンセントが小さな「過程」の蓄積であり、これこそが患者や家族の「心」の支えであることを物語っているのである。

   人の心は、繊細で深遠である。病に苦しむ患者にあってはなおさらである。それは花のつぼみと同じく、周囲の暖かさにひとりでに開くもので、本当は道具で直接こじ開けるものではない。たとえばもし私が患者なら、精神科医の介入について「余計なお世話だ。」「そんなことより病気を治して欲しい。」と感じたり、構えて気丈に振る舞ったりしてしまうかもしれない。もちろん、身体疾患の患者に「心」の専門家が介入することは、精神症状の顕著な患者に専門的に対処できる、患者にとって話し易い医療者の選択肢が増す等のメリットもあろう。

  だが、専門家の投入イコール「心の医療」の実現とみなすなら、それは「心の教育」の為にスクールカウンセラーを招いて事足れりとするのと同じ過ちである。患者と家族が一番ありたいと願い、またあるべき所は、医師との「対話」の場、インフォームド・コンセントの場であるからである。
Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...

コンテンツ提供 by 介護の安心ガイド